2008/02/10
 六義園雪景色
 散歩

2002/11/24
 六義園夜間
 ライトアップ

2001/11/27
 六義園夜間
 ライトアップ


Goolgle―六義園最新情報(単なる散歩の記録ともいう)
こちらは随時更新中!

 

 庭の第一の要件は囲われていることである。囲われた空間を、持主は自分の好きなようにかたちづくる。だから、庭を見せることは丹精を込めた作品を披露することだといえる。人に見せて初めて庭の価値は世間に知られるし、持主の名も高まる。庭の魅力を提供する喜びを手にすることもできる。
 イギリス起源といわれるオープンガーデンが近年注目を集めているが、庭を見せることは、江戸時代にも行われていた。偕楽園のように制限付きで解放された庭のほかに、広い範囲の人々を対象に、日常的に庭を見せることが行われていたらしいのである。

 
信鴻の時代の六義園
 
 筆者は数年来、江戸時代後期の六義園での庭園生活を調べている。柳沢吉保の下屋敷として名を馳せた六義園は、吉保の孫信鴻(のぶとき)の時代になると、信鴻の隠居所として使われた。信鴻はこの下屋敷で趣味の俳諧や芝居を楽しむ生活を送ったが、庭いじりもその生活の大きな部分を占めた。
 信鴻の時代の六義園は、池の周囲に築山を配したレイアウトは今と変わりないが、動物、特に鳥が多かった。こうのとりや朱鷺も飛来して池際の樅の大木に巣をつくり雛を育てた。春には土筆が築山に群がり生え、秋には栗が稔り、茸が採れた。菜園もあった。
 下屋敷での信鴻は、桜の大木を移し植えたり、菊づくりの専門家に頼んで見事な菊の花壇をつくったりと、庭に手を入れ続けた。植木屋や雇い人の手を借りたのはもちろんだが、彼自身、雑草を刈り、種を蒔き、躑躅の芽を挿し木し、楓や栗の苗を育てて庭仕事に精を出した。土筆や野韭、たんぽぽ等の摘み草や栗拾い、茸狩りに興じ、園内の動物の動静に目を配った、六義園は彼にとって、自身の手で自然を育み、その美を愛で、稔りを収穫する場所であった。
 この丹精の賜物を信鴻は「見せた」。彼の日記には「庭を見せる」「園中見せる」の記述がたびたび現れる。
 
庭を見せる
 
 信鴻は日記に、庭を見せた人々の名前と身分を記している。一人での見物もあれば、グループでの見物もある。春と秋が多いが、年間を通じて見物人は訪れており、五〇組以上の人々に庭を見せた月もある。
 庭を見せるのは、藩の関係者が最も多い。上屋敷からの訪問者や使いの者、江戸詰になって国元から来た藩士や国元に帰る藩士が目につく。国元からの藩士は江戸の屋敷の壮麗さに目を見張ったことであろう。彼らの口を通じて、国元にも庭の評判はひろまったに違いない。藩の威信も増すというものである。
 側近の家族が土筆摘みに来ることもあれば、挨拶に来た奉公人の親兄弟が庭を見物して帰ることもあった。出入りの町人や職人、俳諧仲間の大名や市井の宗匠、贔屓の役者や芝居茶屋の関係者にも、あるいは里帰りした息子や娘の従者たちにも見せた。様々な人に様々な機会を捉えて、信鴻は庭を見せている。
 だが、最も注目されるのは信鴻と直接関係のない人々に庭を見せていることである。この信鴻と直接関係のない部外者の庭見物は、年とともに次第に増える。庭を見せたのは、身分的には、御家人や他藩の藩士といった武家と町人がほとんどであるが、練馬村の名主の息子や岩槻の名主とその同行者のような農民の名もある。
 見物人の比較的多かった天明三年(一七四三)四月には四一組の人々に庭を見せているが、武家一三組と町人一六組、ほぼ四分の三が部外者であった。武家では、旗本、御徒、与力といった幕臣もあるが、久留米藩や津藩の藩士もいる。駒込に隣り合う巣鴨の旗本の家内に見せた時には、「上下十四五人、侍四五人、医者一人」とあるから、侍女や供の武士を従えて奥方か姫君かが訪れたのであろう。
 町人では、「春木町町屋婦人三人」「片町清水屋家内三人、小女一人」「本郷三物屋、倉田屋仲間五人」と、本郷や駒込など下屋敷近辺の者が多いが、京橋や日本橋からの見物もある。京橋の簪問屋の家族は、「婦人六人、男四五人、子供三人」に町医者が同行していた。同業者仲間、子供連れの家族、女達だけと、人々は思い思いに庭を訪れたのである。
 天明の頃の江戸では、郊外の寺社や花の名所を訪ねる行楽が盛んになり、行楽地が形成されてくる。駒込の地も、桜や紅葉の名所にほど近い郊外の遊覧地の一つであった。特に六義園の周囲は植木屋が多く、秋には菊見の人々で賑わった。六義園の庭見物も郊外の遊覧の一つであったように思われる。
 庭見物の人々は、案内人に案内されて庭をめぐったようであるが、「庭を見せる」だけでなく「庭を貸す」ことも行われた。こちらは、俳諧仲間や侍医、近侍の者といったごく親しい身近な人々に限られたようであるが、半日ほど庭を自由に使わせている。時代は異なるが、九段坂下に屋敷のあった旗本の婦人が、親類の旗本の下屋敷に家族総出で出かけ、蕨取りや凧揚げに興じた後、弁当を開き酒を飲んで夕方まで遊んだという記録もあるので、庭の貸し借りはよそでも普通に行われていたのかも知れない。
 
「つて」を頼る見物
 
 信鴻と直接関係のない人々は、屋敷関係者のつてを頼って庭を見物した。日記には「同道」「案内」「願い」「世話」「取次」と言った仲介者の存在を示すことばがたびたび出てくる。側近や侍女、出入りの町人や芸人あるいは俳諧仲間と、信鴻に日常的に接する人々が身分に関わりなく仲介者となった。六義園の手入れに雇われた植木屋もたびたび見物人を案内している。
 「妻の兄」「知己」「縁者」「親族」などと記された仲介者との関係は、人々があらゆるつてを頼って庭見物を申し出たらしいことを窺わせてほほえましい。仲介者を通せば誰でも庭を見ることが出来たようだが、仲介者の存在で、見る方も見せる方も、互いに相手を特定できる関係になる。不特定多数に開かれていながら個人的でもある関係が庭を媒介に成立したとも言える。庭は、囲われた私的な空間でありながら、一般の人々に開かれていたのである。
 つてを頼って個人の庭を見物することは、それほどめずらしいことではなかったようである。信鴻も、福山藩の下屋敷の菊を見たいと、家臣を下屋敷に住む彼の俳友のもとに「談合」にやったことがあるし、散歩の途中で忍藩主側室の隠居所の菊見物の申し入れをさせたこともある。どちらも相手の都合で断られているが、庭見物の申し入れをすることは比較的自由に行われた事を窺わせる。
 その頃、六義園近くの西ヶ原に牡丹の花壇で知られた農家があったが、当時の名所案内記は「売り物でないからみだりに入れないが、勝手より案内を乞うて見物するように」と記している。個人の庭は案内を乞いさえすれば見物することができたのである。東海道の宿場町、原でも園芸植物のコレクションで知られた個人の庭を多くの人が訪れている。今に残る何冊もの芳名帳には、参勤交代の大名から伊勢参りの農民まで、全国各地から訪れた様々な身分や職業の人々の名前が記されている。
 庭は、人の手と自然が協働して作り出す美の世界であり、庭を見ることはこの美を愛でることである。庭を所有することのできる人はごく限られていたが、彼らは、仲介者や芳名帳で人物を特定して、広く人々を私的空間に招き入れた。厳しい身分制度のもとにあるこの時代、庭の美を享受する機会は、身分の上下や男女の別に関わりなく、その価値を解する人に開かれるべきだする社会通念なしには、このように「庭を見せる」ことはありえなかったように思われる。わが国にも「庭を見せる」文化は存在したのである。

小野佐和子
千葉大学園芸学部教授

この原稿は社団法人農山漁村文化協会発行、増刊現代農業『新ガーデンライフのすすめ』掲載の「江戸のオープンガーデン『六義園』 柳沢信鴻日記にみる“庭見せ”文化」を小野佐和子先生のご厚意に寄り掲載させて頂きました。著作者に無断の転載はご遠慮ください。


【私設六義園案内所】へようこそ!
六義園と書いて「りくぎえん」と読みます。御存じでしたか? 住所に「六義園」を含む住居で暮らしているのですが、なかなか「りくぎえん」と読んでもらえません。一番多いのが「ろくぎえん」次いで「むつぎえん」、面白いのでは「むつよしえん」と読んだ方もおられました。「りくぎえん」と読むことを少しでも多くの方に知って貰いたいと思ったのが、私設ガイドページを設置した一番の理由だったりします。

【私設六義園案内所】からのお願い
「私設」と付くことから推察していただけるように、このページは庭園の管理者である「東京都」とは一切関係ありません。毎日六義園を眺めながら仕事をしている「本のデザイナー」が徒然に作成している自己満足的色彩の強い「ガイド・ボランティア」ページです。リンクしていただくのは有り難いのですが、「六義園の管理人が作っているページ」と紹介されるのには参っています。また、桜のシーズンには「お花見の予約」(どうしてそんなこと思いつくんだろう?)のメールが来たのには呆れました。くれぐれも「私設」であることをお忘れなきよう、よしなに(^^)

【六義園の概略】
六義園は、五代将軍綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702年)に築園した和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水庭園」で、池をめぐる園路を歩きながら移り変わる景色を楽しむ繊細で温和な(原文ママ)日本庭園です。当園は江戸時代の大名が作った庭園の中でも代表的なもので、明治時代に入って、一時、三菱の創業者岩崎弥太郎氏の別邸となりましたが、その後、昭和13年に岩崎久弥氏により東京市(都)に寄付され、昭和28年には国の特別名勝にも指定されている大変貴重な文化財です。又、園内には豊富な緑と、広い池がいろいろな野鳥を呼び寄せ、ウグイス、メジロなどの留鳥や、マガモ、オシドリなどの渡り鳥も多く見られ訪れる人々の目を楽しませてくれます。

(財)東京都公園協会東部支社発行の入口で貰えるパンフレットより。

【六義】
これが読みにくいですね。詩経(中国最古の詩集)の中の詩型と表現法による分類として、風・雅・頌・賦・比・興の6つが挙げられており、これが六義だそうです。なんか、難しいなぁ。

【綱吉】
犬公方として有名なお犬様の徳川綱吉ですね。1646年から1709年まで生きておられました。柳沢吉保らを重く用いての経済政策の失敗がこの人の評価が低い原因になっているようです。

【柳沢吉保】
1658-1714年。1680年綱吉が将軍になると同時に側用人に登用されました。1694年川越藩主となり老中格、1698年大老格という異例の出世をしています。この頃に六義園を作ったのですね。家中に荻生徂徠などの学者を召し抱えるなどして文治政策を推進した人ですから、庭園につけた名前もえらくハイブローです。

【岩崎弥太郎】
土佐藩の経済官僚を経て海運業を営み三菱財閥を興した人です。六義園の正門前、私の住んでいる建物が建つ前は、この場所に三菱銀行があったのも何かの縁でしょうか。
六義園は柳沢吉保没後荒れ果てていたそうですが、文化7年(1810年)頃整備され、明治15年(1882年)頃、付近の藤堂・安藤・前田氏の邸宅と共に、岩崎氏の所有するものとなったようです。

開園年月日:
昭和13年10月16日
面積:
8780941平米
開園時間:
午前9:00〜午後5:00(入園は午後4:30分まで)

樹木数:
針葉樹360本、常緑樹3490本、落葉樹2490本