写真植字を始める
写研とモリサワ

石井文字

一寸の巾

活版から受け継いだもの
製版カメラ


自動化へ

マイコン

デジタルになってみれば

写研とモリサワ

写真植字機の発明は大正時代まで遡ります。すでに図面はあったそうですが、レンズや字母を造るための技術的な障壁で、第一号機ができたのは昭和3年になってからでした。世界最初の写真植字機の誕生です。
理論だけは英国でも研究されていたようですが、欧文の字巾を送る装置が機構的に複雑になるため実現には至らなかったそうです。
カール・ツァイスがエルンスト・アッベの協力を得て理論的にレンズを設計し、初めて製品として発表したのが
1872年のことですから、石井茂吉は約半世紀後にレンズの設計をしたことになります。

写研の歴史を書いた書物が現在行方不明のため以下の文はその本を読んだ記憶にのみ頼っています。
記憶間違いがありましたらご容赦ください。また、写研の資料に拠る事もご了承ください。

最初に設計図を持ち込んだのは日本光学でしたが満足できる結果が得られなかったので、現在のペンタックスの前身であった梶原光学に依頼して製作したものが最終的に採用されました。字母は終戦直後まで活字ををそのまま使用していたということです。レンズは10本、文字盤は20枚で 3000 字でした。 終戦後、写植機の生産を望む声がありましたが、戦災で設計図は焼失していました。幸い婦人の機転で地下に避難させた3台の機械が残っていたので生産は可能になりましたが、東京では製作できる工場が見つからなかったため、大阪で工場を経営していたかつての助手の森沢が本体の部品を製造することになり、出来上がった部品を東京で組み立てて出荷するという形が暫く続きました。ところが、東京の新製品開発が進まないことに苛立った森沢が無断で独自開発した写植機を売り出したことがトラブルに発展し、以後両社は袂を分かつことになりました。森沢の写植機のレンズはターレットが上下二段に分かれていました。上のレンズと下のレンズの組み合わせで精度を上げようとしていたのだそうです。 昭和40年代のSK3-RYのレンズは7級から80級までの20本がターレットになっていて、56,70,90,100級は、それぞれ50,62,80級から拡大していました。カマボコ型の変形レンズは1番から3番まで3種類あり、文字を一方向に縮小して変形させ、角度を変えて、長体、平体、斜体を作っていました。
当時の見本帳を見ると、和文書体が17書体、かなが8書体、欧文が48書体、ハングル、中国簡化文字、タイ文字のほか、数字や飾り罫、地紋がありました。 文字盤は、細明朝体と太ゴシック体は単独では販売しないという写研の方針があって、写研の機械を購入したときにのみ手に入れることができました。
これには文字盤の枠に関する写研の特許も絡んでいました。一書体を一纏めにした枠を左右どちらにでもセットできるようにしたものでしたが、モリサワの枠は左側と右側の寸法を僅かに変えてあり、文字盤も僅かに大きくできていました。
このためにモリサワの文字盤は周囲を削らなければ写研に使えず、逆に写研の文字盤はそのままモリサワの機械に流用できてしまうという状況がありました。
そういえば、モリサワの新ゴがゴナに似ているということで訴訟がありましたが平成5年に大阪地裁で第一審判決は棄却になったようです。
   
 
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