写真植字を始める
写研とモリサワ

石井文字

一寸の巾

活版から受け継いだもの
製版カメラ


自動化へ

マイコン

デジタルになってみれば

タルなって

マイコンブームから10年近く経つ頃には、かつてはマイコンのパーツが目立っていた秋葉原の様子も一転して、完成品のパソコンが主役になっていましたが、パソコンは知っていてもMacintoshを知る人は余り多くはありませんでした。
そんな中で、デザイナーのK氏は早くもMacintoshを使い始めていました。
その人の話からMacintoshの名を初めて聞いたとき、まさかアップル社の製品とは思わず、ましてそれがかつて秋葉原で見たあのAppleIIの末裔であったとも気が付きませんでした。K氏からのデザインには当然ながら MAC が使われ始めプリンターで出力されたレイアウトが回って来るようになりました。まだデータを変換するコンバータがなかった頃のことで、レイアウトを Artbit 101のカメラで読み取り、それを下絵として作図しプロッターで書き出していました。 1990入ると、入稿に陰りが出はじめました。多摩地域ではすでに前の年から不動産の動きも鈍っていました。身近なところではバブルの崩壊が目前に迫っているように見えましたが、土地転がしや地上げ屋のニュースは相変わらずテレビや新聞紙面を賑わしていました。仕事の一部は減りましたが、幸い、展開図の作図がプロッターにより効率よくできるようになったお蔭で、新しくパッケージ関係の仕事を受注できたので、その頃の景気はまだ深刻ではありませんでした。 デザインは次第にMACによるものが増えてきました。そのデータをコンバートできれば、貼り込みを除いて版下作成を全てパソコンでできるようになります。 しかし、それが可能になったのは1992年の暮れのことでした。
この年はまたMACのソフトとハードについて勉強を始めた年でもありました。 やがてArtbit101は102にバージョンアップされCPU は32ビットの80486となり、待望のEPSFコンバーターもメインソフトに内蔵されました。
このコンバータは双方向のデータ交換が可能で、MACのデータをプロッターで出したり102で作った展MACのデータとしてデザイナーに渡したりできるようになりました。今まで紙焼きを貼っていたものも一部MACのデータから展開図と一緒にプロッターで書き出すことも可能になりました。ただ円弧をつなぐ102の曲線よりもMacintoshのベジェ曲線の方がロゴには適していました。 その頃はDTPも耳慣れない言葉ではなく、平成の産業革命という言葉も聞きました。雑誌に載った大日本スクリーンの広告で「版下が消える日」という衝撃的な文字を見たのもその頃のことでした。それは既に有り得ることだったのでそのための準備を進めて行ったのですが、数年後の事態には考えが及びませんでした。 1993
春、幕張で開かれたマックワールドエキスポでクワドラ800が展示されされると、矢も盾もたまらず、早速2台のマックを注文してしまいました。
2台にしたのは仕事に使うことが目的だったので、万一の故障を考えると1台では心もとなかったからです。さすがに2台ともなると予算も限界で、メモリーは8MB、モニタも13インチで我慢ぜざるを得ませんでした。
   
 
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