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近況報告:熊野古道体験

 

 

今年の連休はいかがでしたか?

小生の連休は4月29日〜5月7日まで9日間もあったのに、三重県熊野市の生まれ故郷での姉さんの墓参り(4年前に非運の死に見舞われた)と、伊豆での山小屋の修理・点検の日々で終わってしまいました。

生まれ故郷の熊野市遊木町(ゆきちょう)は紀伊半島の最南部東側、熊野灘に面して突き出した岬の陰にある小さな漁港で、小生が小学校2年生(7歳の春)まで過ごした思い出深い地です。戦後50余年間ほとんどその姿が変わらない、今では「驚異の世界」とも言えるようなまさに忘却の辺境です(山が断崖状に海に切れ込んでいるリアス式海岸なので、平地がなく、地形的にも変わりようがないのでしょう)。ここでは時間は半世紀単位で刻まれているようです(む〜……!)。

遊木町は約200所帯500人(?)ほどの、町とは名ばかりの小さな、鉄道の駅もない村です。両隣りの町には鉄道JRの駅があり、そこへ通ずる国道311号が唯一の交通ルートです。国道といっても断崖状の海岸線にへばりつくように沿って、くねくねと曲がる狭い道路ですが、それさえも遊木町の少し先、須野町で行き止まりになっています
(紀伊半島を一周する計画の海沿いの国道は、戦後50余年を経ても熊野地方だけ未だに開通していないのです。ゲゲツ)。
この町には、ほとんどの町村にはあるはずの基本的な生活基盤がほとんどありません。漁協と小学校はありますが、ごく最近できた海産物の加工場以外には地場産業も、日常雑貨を扱う商店などもなく、さらには市役所の出張所、町役場、警察の駐在所、消防署などの公共機関はもとより、診療所、郵便局、金融機関の支店さえもありません。
また平地がなくて米作ができないので、農協もなく、わずかな段々畑での自給自足的な畑作も、住民の高齢化とともに年々減少するばかり。とにかくここでは漁協がすべての生活関連の窓口です。
公共の機関が1つもないというのは、珍しいというより、やはり棄てられた異郷と言うべきでしょうか。これでよく生活ができるなぁ……とため息が出ますが、必要な生活物資は自家用車や、1日数本のバスで隣り町や熊野市へ出かけて仕入れています。
驚いたことに、漁港としては近隣に名が通っているのに、魚屋もなく、外来者は魚が買えません(住民はすべて漁協の組合員なので、魚は直接漁協から買うのです)。

このような辺境の集落ですが、隣りの和歌山県新宮市出身の作家、中上健次の小説で描かれたような存在論的な情念と葛藤の渦巻く混沌とした人間ドラマは、ここではごく日常的に起こる出来事です。
親類・縁者のほか、顔見知りの人々にまつわるなんともおどろおどろしい因縁話や血なまぐさい凄惨な争い事を聞くたびに、いかにも海に生死をゆだねる漁師らしい放縦で烈しい気性と無常な生命観がうかがわれて魂消るばかりです。
しかし、それもこれも人々にとっては特に珍奇な事件でもなく、とりたてて噂するほどのニュースでもないようです。まるで人々の生活の深部には、一種の漂白・放浪・進取の気風と、それとは相反する土着・自尊・排他の気風という二律背反の情念や葛藤が、特に意識されることもなく潜在しているかのようです。それは「海 の民」に限らず、「山の民」にも共通する、南紀独特の気候・風土・歴史・文化のなかで育まれてきた精神風土なのでしょう……。

そんなことに思いをはせながら、今回は熊野古道の伊勢路(東紀州の海沿い遍路)の1つ、遊木町を間に南北に隣り合う新鹿(あたしか)町と二木島(にぎしま)町を結ぶ「逢神坂(おおかみざか)」ルート(新鹿庚申〜逢神坂峠〜二木島峠〜二木島トンネル)を、かみさんと2人で歩いてきました。
逢神坂の語源は「伊勢と熊野の神の出会う場所」、あるいは今は絶滅したとされる日本狼が出没したからとも伝えられています。


緑青に苔むした石畳、落ち葉に覆われ昼なお暗い林道、ホトトギスやウグイスの鳴き声、荒れつつある山の木々、行き倒れの巡礼碑、猪除けの猪垣、古びた祠と峠の社、奇妙な対比を見せる新旧の道標……などなど、約4時間の山越えの間、誰にも会わず、まさに熊野は奥深い「木ノ国根ノ国」なのだと実感しました。  

「木ノ国根ノ国」とは「紀ノ國」に由来しますが、「紀」や「木」という語は実は「き=鬼」のなまったものか、言い換えではないか…?というのが小生の長年の独断的な仮説で、「鬼」とは古来「尋常でない者、異なる者」の意で、つまりは「山賊=山窩」や「海賊」を意味したのではないかと考えています。
事実、南紀には「き」の付く地名が数多くあり、「遊木」町近辺だけでも、熊野詣の巡礼たちに西国一の難所といわれた「八鬼山」(やきやま)のほか、「九鬼」「三木浦」「三木里」「二木島」などの町があります。
また「熊野市」はこの地方では最も大きな町ですが、これは国鉄・紀勢本線が全線開通した当時につけられた新しい名で、もともとの名は「木の本(きのもと)」(鬼の本?)といい、歴史的にも古いこの名のほうが今でもよく知られています(紀勢本線は大阪−名古屋間を結んで紀伊半島を一周する、この地方にとって唯一の幹線鉄道で、交通・物流の要ですが、長い間、新宮−尾鷲間の熊野地方だけは開通せず、大阪−新宮間と名古屋−尾鷲間で折返し運転していたのです。この地方が昔からいかにアクセスの困難な地形であったかを物語っています)。

さらに熊野市には、太古の昔に隆起したといわれる広大な海底鍾乳洞や奇岩の塊が海に突き出ている「鬼ガ城」という絶景の名勝があり、江戸時代の滝沢馬琴作の有名な「南総里見八犬伝」には、ここを根城とする「多賀丸」という海賊が登場します。  

今は昔の少年時、おれはこうした海賊の遊軍(遊木=遊鬼)の末裔かもしれない……などと、そんな妄想をたくましくした時期もありましたっけ。

今度お会いするときには「熊野古道」の話でもしましょう。ではまた。

(つづく)

 

 

 

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