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川上哲ちゃんの連載『じっとり酔眼』に,「店名1」として「捨て石」という名の居
酒屋の話があるけど,おれは「なげやり」という名の飲み屋を知っている。 いや,正確には知っていたというべきだろう。最近,その店は「●●●」という,どこにでもある名前に変わってしまったからだ。
店構えはそのままのように見えるので, 店主が変わったのか,あるいは名前だけ変えて居抜きで営業を続けているのかもしれ ない。
この店名を初めて目にしたときにはさすがに奇異な感じがした。
だって「なげやり」だよ,なげやり……。
通りに面した小さなビルの1階で,入口のドアは一般住宅でよく見かけるようなアルミサッシの引き戸(すりガラス)で,店舗を示すようなネオンや看板・提灯などもなく,どう見ても地味な事務所くらいにしか見えない。ただ,ありふれた草書体で白地に黒く,「なげやり」と素っ気なく書かれた据え置き看板が店の前の路上にあるので,かろうじて飲み屋らしい,とわかるだけ。およそ居酒屋らしい風情の感じられない,
一見するだけで,いかにもやる気のなさそうな,「どうでもいいや」という気配が漂う店構えだった。
毎日乗り降りする駅前にあるので,気づいてから2〜3週間後に,一度だけ入ったことがある。なかはカギ型のカウンター席だけで,7〜8人も入ればいっぱいになりそうな広さだった。目の前のカウンターの中に30代半ばくらいの男が1人,店の奥のほうに少し若そうな女が1人いて,その女がかすれた声で,
「らっさい」
と言った。男は何も言わなかった。
客はおれ1人だけで,見回すと,四方の壁には,「ビール」とか「酒」と,マジックインキで書かれたらしい縦長の紙が4〜5枚,斜めにセロテープで貼ってあり,メニューらしきものはその紙だけで,そのほかにはなんにもない。ポスターやカレンダーなど,一切の表示や飾りを拒むかのように,白っぽい塗装の壁面が天井の明るすぎる蛍光灯の下でのっぺりと光っている。
簡素も極まればそれなりに一種の美的センスが漂うものだが,ここには気の萎えるようなけだるさとしらけたよそよそしさが際立つばかりだった。
ビールと枝豆くらいで早々に退散したが,その店の空疎な雰囲気は妙に印象に残った。
その後も,夕刻,通りすがりにチラッと店のなかをうかがうと,時には客のいる気配がしたが,人気の感じられないことも多く,休みのときもあり,名前どおりの店なんだな……となんとなく納得して,気にしなくなっていた。
半年以上経って,据え置き看板の店名がいつの間にか変わっているのに気づいたが, 店構えはそんなに変わらなかったので,しばらくの間見落としていたのかもしれない。
「あの店,名前が変わったわねえ」
と,かみさんが言う。彼女もなんとなく気になっていたそうで,
「だいたい名前がよくないわ,『なげやり』なんて。料理もなげやりなのかしら,と思っちゃうじゃない」
それを聞きながらおれは,あの雰囲気は客への迎合を拒絶し,虚飾を廃するという独断的な経営方針の表われだったのか,それとも名前通りのなげやりな態度の表われにしか過ぎなかったのか……と考えあぐねていた。
だって,本当に「なげやり」だったら,お愛想やお世辞などを欠かせない飲み屋のような客商売はやらないだろう?
(つづく)
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