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2002年
3月 1日 金曜日
【本日休業】仰げば尊し何故か斉唱

仰げば尊し、わが師の恩。
教えの庭にも、はや幾年。
おもえば、いと疾し、この歳月。
今こそわかれめ、いざ、さらば。
互いに睦みし、日頃の恩。
別るる後にも、やよ、忘るな。
身を立て、名をあげ、やよ、励めよ。
今こそわかれめ、いざ、さらば。
朝夕なれにし、まなびの窓。
螢のともし火、積む白雪。
忘るる間ぞなき、ゆく歳月。
今こそわかれめ、いざ、さらば。

2002年
3月 2日 土曜日
【Windows XP Pro
搭載パソコン自作記】
海上保安官であり、森林インストラクターでもあるOさんの事を日日抄に綴り(2002年
2月24日 日曜日【林檎の名前】5…Power Macintosh 8600/200/ZIP)、
「いいなぁ、もし子ども時代、こんなお父さんがいて、一緒にパソコンの自作なんて出来たら、どんなに楽しかっただろう」
と溜め息が出た。空中に浮かんだ溜め息型の吹き出しを見ていたら、
そうだ、一日だけ私のお父さんになって貰って、Windows マシンの自作を一緒に体験してみよう!
という名案が浮かんだ。
「午前中、秋葉原へ買い出し。午後6時くらいまでに組み立てとセットアップ。午後6時半くらいから宴会というスケジュールでどうでしょう?」
金曜日あたりはいかが? とメールを出すと、
「...爆爆爆! 金曜にきーめた! 休みますよ。金曜日、年次休暇簿に早速書き込みしなきゃね...」
との、嬉しい返事が。
「午前10:00、ヤマギワ電機向かい、三菱銀行前に怪しい格好をして集合ということでいかがでしょう」
ということで、「親子一日パソコン自作教室」を開催することとなった。
まず、ケース選びだが、私は
AppleComputer が販売していた G4 Cube という機種が好きで、あれくらいコンパクトなものが欲しいと、Oさんに相談したら、ソルダム株式会社発売、星野金属工業株式会社製造の「WiNDy
Small BareStyle 累計出荷10000台突破Anniversary 10000【WiNDy Polo T Material
Version S 】」という機種を紹介され、早速ネット上から限定200台、¥38,800 で購入して置いた。
■Polo T Material Version S………¥38,800
■HDD:IBM Deskstar IC35L040AVVA07-0 41.1GB………¥11,900
■メモリ:PC133CL3/256MB(ノーブランド)×2………¥15,980
■CPU:Intel Celeron 1.2Ghz………¥12,350
■FDD:FD1231H………¥1.980
■Windows XP Pro Plus………¥20,780
CDドライブ、キーボード、マウスはOさんからいただけるとのことで、総額¥101,790となった。
サイトに「本日休業」の看板を掲げ、午前中に買い物を済ませ、午後から組み立て。
Polo という箱は中々のヒット商品で、初期型からかなり改良が進んでいるようで、Oさんの解説を聞きながら組立開始。一番の難関はIDE機器を繋ぐ帯状のベローズケーブルの収納であることがわかった。ケーブルを少なくすれば内部の風通しが良くなるメリットがあるのだが、CD
をマスターにし、FD をスレーブにして一本で済ませるには附属コードの長さが足りない。結局、両ドライブを別のバスにしたのでコードは二本になってしまった。
最後に
CPU を取り付けて組立完了。OS と各種ドライバをインストールし無事起動。
LAN ケーブルを繋いで再起動するとなんの設定もせずにインターネット接続完了。Windows XP は中々凄い。起動も早いし、操作感も軽快、思ったより駆動音も静かで、早速
Macintosh 用モニタの隣に置いて、ディスプレイを共有し、ボタン一つで Mac OS 9.2.2 と Windows
XP Pro を切り換えられるようにしてみた。中々、快適である。
USB 端子が4つ、IEEE1394(FireWire)端子が2つ、その内
USB 端子が2つ、IEEE1394(FireWire)端子が1つ前面に配置されているので、Macintosh 用の周辺機器が気軽にホットプラグ(活線挿抜)で流用できるのも有り難い。
パソコン自作というのは、余程手持ちの部品やジャンク品などを使わないと、決して安いものでは無いようだ。工作を楽しみ、友情を楽しみ、愛着を持つことを喜ばない方にお薦めできるものでは無い。予定通り6:30にはセットアップを完了。
近所の居酒屋で、母と妻、Oさんと一緒に乾杯したビールの味もまた格別で、少し遅れて郷里清水市で中学の先輩だったSさんも加わって、楽しい三月吉日の夜は更けた。当サイト「ヒト、イヌに会う」のコーナーで紹介しているSさんの愛犬の名前が、自作パソコンと同じ「Windy」であるのも奇妙な縁かもしれない。
※組み立てはいかにも私がやったようですが、すべてOさんがやってくれて、私はお茶を入れたりしただけ。
2002年
3月 3日 日曜日
【石の血脈】
少年時代、伝奇小説というものを初めて読んだのは、唐代の短編伝奇小説「杜子春伝」を芥川竜之介が翻案した「杜子春」だった。
中国、唐代の短編伝奇小説。鄭還古(一説に、李復言)作。長安を流浪していた杜子春が道士の老人に助けられて素行を改め、仙人になる修業をする。喜・怒・哀・懼・悪・欲の情には耐えられたが、子供への愛情を捨て切れずに失敗する。(広辞苑第五版より)
そうかぁ、「子供への愛情」かあ、などと昔読んだ本の記憶を遡り、成人してから夢中になった伝奇小説、半村良の「石の血脈」を思い出したりしていたら、もっと大切なことを思い出した。
日日抄を綴る中で、幼い頃、母と私を「捨てた?」父のことが気になり、それでも一度墓参りくらいしたいという思いも強くなっていたので、母親が上京中なのを幸いに一杯飲みながら、私の根っこ「石原の血脈」について訊ねてみた。
母は私に対して自分のことを「お母さん」と言い、他人の母親もまた「お母さん」と言うので、私に通じる人びとの系図を言葉で語らせると、何十人も「お母さん」が登場することになってしまう。もう、何がなんだかわからなくて、これはいかんと思い立ち、私が書記役になってメモ用紙に簡単な家系図を書きながら話を聞いてみた。
系図化すると話の内容が極めて鮮明になり、人の名に続いて堰を切ったように今まで聞いたこともない事実が母の記憶からほとばしり出て、その様子は鬼気迫る場面もあったが、ほとんど感動的でもあった。七十二歳の記憶というものも、聞き手が心に手を添えてやりさえすれば、その歴史を歩く「思考の足どり」の確かさに驚く。
明治・大正・昭和を生きた人々、私が今こうして生きてここにあることに、欠くべからざる血脈を担った人々を辿ってみて思うことは、何という波乱の時代だったのだろう、ということがまず第一にある。
少年時代に父親を失くし、母親に連れられて新しい父親の元に身を寄せたものの、新しい父親に馴染めず、朝鮮半島に住む姉を頼って、単身、下関港から船に乗って海を渡った十五歳の我が父。その父を成人するまで我が子のように育てた伯母の話は、胸に迫るものがあった。
戦争もあってか、夫婦の死別が多い。そして離婚、再婚の何と多いことか、自殺、肺結核で命を落とした者が多いことにも驚く。そして、乳幼児死亡率が高かったこともわかる。メモしただけで六十数名の、私に血の繋がった人々が生きた人生は、とても書き取ることさえできないほどの波乱に満ちたもので、果てしない伝奇小説を読んでいるようにも思えた。
親類縁者の、人間関係の葛藤、自身の心の中の葛藤、それらを育んだ「魂の母胎」も少しだけ理解できた気もする。我が家系、いや日本人、もしかすると人間全て、一人ひとりの書き留める人もいなかった人生を丹念に辿れば、地獄を生きるような葛藤とともに「人生」という伝奇小説が、誰に読まれるともなくひっそりと、しかし鮮烈に綴られているのかもしれない。
私が生まれた後、国鉄車両内で服毒自殺未遂をしたという父親の別の一面も知ったし、その父親が変死体で発見されて葬られた場所も、今では誰ひとり知る者すらいないという哀しい事実を確認して、私のメモは終わっている。

2002年
3月 4日 木曜日
【ものよみのものがたり】2…時の番人

「モノ」もまた書物なり。
「腕時計で飲ませてくれ」
私が少年だった時代、飲み屋でこんなことを言う客もいたそうだ。
そうまでして酒を呑むなと、飲み屋を経営していた母は諭したそうだが、呑み終えた後で、腕時計を飲み代に、などと言われて断れなかったこともあるらしい。玩具まがいの液晶時計などが登場する以前の時代、「時計すなわち高級品」だったので、そんな切ない飲酒もあったのだ。
私が中学生時代を過ごした静岡県清水市は、腕時計をはめて通学することが禁止されていた。高校生になって初めて腕時計の着用が許される事になっていたのだ。
進学のお祝いに、好きな腕時計を買ってもらうのが楽しみだったのだが、私は新品の腕時計というものをしたことがない。金を持たずに酒を呑み、後日支払うからと腕時計を置いて立ち去り、二度と現れなかった酔客が残して行ったお古がたくさんあったのだ。
当時は自動巻きといって、腕を振ると中のローターが回転してネジが巻かれる方式のものが多かった。
「どれでも好きなものを選べ」と言われて、私はハイ・ビートといって、通常一分間、六十回、秒を刻むのが不通なのに、その回数が倍数になっている精度の高い腕時計が気に入って、高校時代三年間、その時計をはめて通学した。自動巻き腕時計を、いかに薄く、いかに正確に動かすかに、技術者が鎬を削っている時代だった。
お古の腕時計でも不満では無かったのだが、一歳年上の従兄がクオーツ式腕時計を買ってもらい、テレビの時報に合わせてその正確さを自慢する時は羨ましかった。とてつもない正確さであるとともに、とてつもない高級品だったからだ。
いかに精度を高めても機械式腕時計は少しずつ狂う。
友人と時計を見せ合い、おやっというほど誤差がある時、私たちはよく個人商店を覗いた。昔はどの商店でも、覗き込むと真正面の壁に掛け時計がかかっていて、ご主人が時報に合わせてきちんと時刻合わせをしていたものだった。几帳面な商売の心掛けを誇るように、それが顧客へのサービスでもあるかのように、主人はこまめに「時の番人」をしていた。
学校から帰り、開店前の母の飲み屋に立ち寄る時、壁にかかった船舶用時計の時刻合わせをするのが、私の役目だった。私もまた「時の番人」の役回りを愛していた。
成人して、自前で腕時計を買えることに喜び、憧れのクオーツ式を買って見たのだが、どうにも気に入らない。
電池切れで、ある日突然止まるからだ。腕時計の文字盤が、ぎょっとするような時刻を指して静止しているのは気味の悪いものだ。その気味の悪さに辟易して、手巻きや自動巻きの腕時計に逆戻りしてもみたのだが、社会が秒刻み化しているのか、私の心が病んでいるのか、その誤差がまた気になってならない。個人商店の掛け時計は見かけない店も多くなり、見かけたところで、かつてのようにマメな「時の番人」はもう居なくなっていた。
電池交換はいやだし、誤差が出る時計もいやだし、何か良い時計は無いかしらと思いながら、量販店の安物時計の吊り下げ陳列棚で見つけたのがこの時計だ。
SEIKO ALBA FIELD GEAR というのだが、なんと文字盤が太陽電池充電用受光器になっていて、蛍光灯程度の明るさがあれば常時充電され、電池交換がいらないのだ。なんと素晴らしい発想と感服し、量販店のポイントカードで買える安さにも驚いて即座に購入した。もう何年も使っているのだが、確かに電池交換無しで止まることもなく時を刻んでいる。
開発元のサイトによると「世界的に電池交換不要のエコロジーウオッチが好評な市場」と認識しているようで、このような時計を「自己完結型」と、呼んでいる。「時の番人」も「電池の番人」も「自己完結」するわけだ。
私が使用している太陽電池式のものを「エコテックソーラー」、従来の自動巻きローターの回転で発電・蓄電し駆動するものを「スプリングドライブ」、腕に装着し体温と外気温の温度差で熱電素子に温度差が生じ、電流が発生する現象を利用したものを「サーミック」と呼ぶのだそうだ。いずれも自家発電してクオーツ・ムーブメントを駆動する「時の番人」も「電池の番人」も「自己完結」の製品である。
残るはもっと長いスパンでの時との葛藤。
蓄電用の二次電池も決して永遠に機能するはずは無いから、その寿命がどの程度で訪れ、交換の際、メーカーがどのような対応を示すかに、その「エコロジー思想」の真価が問われることになるのだろう。
やはり、最も環境に優しいのは、電池のいらない機械式時計だと気づいた時、懐かしい「時の番人」にも、再び出番があるわけで、同社サイトの最後に“人力により巻き上げられた「ぜんまい」を動力源”とする時計が「メカウオッチ」と名付けられ、究極のエコロジーとして紹介されているのが、遠い日の日だまりのように、そこだけ少し暖かい。

2002年
3月 6日 水曜日
【林檎の名前】7…PowerBook
G3/500

NHK朝の連続テレビ小説「ほんまもん」、第19週、パークレンジャーとして熊野に赴任した主人公の夫・松岡(海東健)は、妻・木葉(池脇千鶴)が沖縄産の紅芋を使った料理を作りたいと、現地に買い出しに出掛けたため、仕方なしに大阪に戻り、娘の子守りをしながらノートパソコンで持ち帰り残業をする。
Microsoft Power Point のようなソフトを使って、プレゼンテーション用のフローチャートを作っているのだが、娘が
AC コンセントに繋がるコードを引き抜いてしまい、パソコンは突然シャット・ダウン。
「あちゃ〜〜」と、顔をしかめる松岡のシーンに、思わず「ほんまかいな〜!」と、声をあげそうになったのは私だけだろうか。松岡パパは、AC
電源でノートパソコンを使う際、DC バッテリーを外しているらしい。
急遽、仕事でもう一台デスクトップ型パソコンが必要になり、インターウェアという会社の
Video 出力カード Vimage PC Card というのを買い込んで、PowerBook 5300c の PC カードスロットに装着し、17インチ
CRT ディスプレイと外付けキーボードを繋いで起動し、本体の液晶ラップトップを閉じて、省スペースデスクトップパソコンとして使用していた時期がある。ビデオミラーリング(ノートパソコンと外部ディスプレイに同じ画面を表示するモード)状態にして、ノートパソコン側を閉じて表示しないわけだ。
この状態で、ノートパソコン側も表示してデュアルモニターモードにすると、外部ディスプレイとノートパソコン画面が仮想の一つの画面となり、大画面表示となる。二つのディスプレイ間をマウスカーソルが行き交う感覚は中々楽しい。片方に仕事のソフト、片方にウェブ・ブラウザやメーラーなどを表示しておくこともできる。
これはなかなか快適だと思えたので、次期 Macintosh は、PowerBook をデスクトップ型として使うことに決め、満を持して導入したのが
PowerBook G3/500 通称 Pismo だ。これに EIZO の FlexScan L360 をモニタとして接続し、AppleProKeyboard
と光学式マウスを繋ぎ、蓋を閉じて省スペースデスクトップ機として使用しているのが、現在の私のメインマシンだ。
この方式のメリットは、机上の仕事環境をそのまま持ち出せば、何処でも全く同じ仕事環境が使えること。年に数度の現場でのやっつけ仕事にも便利だし、老親が三名健在なので、何が有ったとしても、何処へでも仕事環境を持ち運べる便利さがあるし、災害時もこれ一つ持って逃げれば良い。
電子の情報というのは、人の記憶と良く似て、脆く儚い。
目覚め際の生々しい夢の記憶があっという間に雲散していくように、電子機器の動的な記憶もまた、電気の力を失えばたちまち霧消していく。心の記憶を紙に書いて定着するように、電子の記憶も媒体に書き込むことで、静的な記録として定着しなければ保存できない。だが、その静的な記録ですら永遠の保持が約束されているわけではなく、結局、記録というものは、分散し、複製することに頼るしか、消失の恐怖から逃れることはできない。
静止させ、分散し、複製する作業を心掛けていても、突然人を襲う心臓の停止のように、電子機器を襲う最大の恐怖は電力供給の断絶である。それを逃れるための緊急用電力供給装置として用意されているのが無停電電源というやつで、停電を感知した途端、内蔵蓄電池からの電力供給に切り換えてくれるのである。
著名な工業デザイン会社が無停電電源を導入し、これで安心と思っていたら、落雷による停電時、代替電源が供給されないことで、その機器が初期不良品だったことに気づいたという笑えない話もある。それはさておき、もっとも安全な無停電電源こそ、ノートパソコン内臓バッテリーなのである。
私の PowerBook G3/500 には外付け 2.5 インチ 40GB のハードディスクが FireWire(IEEE1394)で接続され、バスパワーという方式で
PowerBook G3/500 からの電力供給により駆動するようになっている。集合住宅にありがちな停電時にも全く機器が停止しない方式にしてあるのだ。頻繁に
PowerBook G3/500 内蔵ハードディスクから外付けハードディスクにバックアッブを繰り返しているが、その作業は少なくとも停電の恐怖からは無縁なのである。外付けハードディスクからさらに
FireWire(IEEE1394)を介して外付け大型ハードディスクへ、そして CD-R へと大切なデータは分散、複製されていく。慣れてしまえばさ程でも無いが、それでも面倒な作業、それが脆く儚い電子情報との付き合い方なのかもしれない。
PowerBook
G3/500:CPU=PowerPC G3/500MHz/200MHz 64 ビットバックサイドバス/1MB バックサイド二次キャッシュ/100MHz
システムバス、最大メモリ搭載容量=SO-DIMM/、64 ビット幅 144 ピン サイクルタイム100MHz ) 512MB×2
まで拡張可能

2002年
3月 7日 木曜日
【父の仏壇】
テレビもまた仏壇である。
先日、「パソコンは仏壇である」と断じたのと同じように、テレビもまた、そう思えてならない。
私が小学校に入学すると同時に、我が家に白黒テレビがやってきた。
父が勤めていた和菓子屋が倒産し、運送会社の事務職を得て引越した北区王子。トイレも台所も共同、六畳一間の木賃アバートには、およそ不似合いな贅沢品だったような気もするのだが、そんな貧乏人でも手が届くくらいに、昭和三十五年当時、テレビの価格も下がっていたのだろう。
物心ついて父親と過ごす貴重な一年間だったのだが、父はテレビが好きで、家にいる夜はテレビばかり見ていた気がする。母は家計を助けるため勤めに出て居り、残業で帰宅が遅れることも多かった。
父は部屋の灯りを消してテレビを見るのが好きだった。貧乏暮らしをひとときでも忘れて、テレビの中の虚構に没入していたかったのだろう。中でも、巨人戦のナイター中継が好きで、テレビに向かって声援している青白い光に照らされた、脂ぎった横顔を今でも記憶している。
私はまだ、野球のルールが分からず、画面右下に現れるS・B・Oの横に点く白い丸が気になって仕方なく、父にどうしてSとOは2つで、Bには3つ丸が付くのかと何度も訊ねたりしていた。そして、それに飽きると画面下に電光掲示板のように流れる広告を眺めて、退屈なナイター観戦に眠くなるまで付き合っていたものだ。
NHKで手塚治虫のTVアニメ「鉄腕アトム」をまとめて放送するらしい。
予告編の中で「鉄腕アトム」を映し出す白黒テレビを見ていたら「鉄腕アトム」は当時モノクロで、「エイトマン」も「鉄人28号」も、やはりモノクロだったことを思い出した。それでも目を閉じると、まるで総天然色であったかのような鮮やかな色彩を伴って、当時の記憶が蘇って来るわけで、テレビって故人を偲ぶ仏壇みたいなものだなぁと思えたのだ。
私は自宅に仏壇のある暮らしをしたことがない。
「夫婦は別れれば他人だが、別れた夫とはいえ、お前にとって父親であることに変わりはない」
と、母は口癖のように言っていた。
「女性関係で問題を起こすような人では無かった」
とも、母は言っていたので、父は死ぬまで独り身だったのかもしれない。だとしたら、父の仏祭りをたった一人の息子である私がするというのはヘンなのだろうかと、ふと思う。
何処でどのような理由で死に、何処にどういう形で埋葬されたのかもわからないので、叶う話でもないのだが、父の仏壇を仕立てるとしたら、観音開きの扉の付いた白黒テレビこそ相応しいように思えてならない。
ドーム球場になる前、国鉄水道橋駅そばにあった後楽園球場。
観音開きの白黒テレビの扉を開くと、スイッチが入り、中で真空管が赤い光を点灯して熱を帯び始める。やがて過去から幻影が蘇るようにブラウン管に浮かび上がるのは、蒸し暑い夏の夜、後楽園球場外野席を埋め尽くした、開襟シャツに団扇片手で、手を休めることなく熱帯夜をかき回し続ける人の群れ。画面右下では、S・B・Oの横に白い丸が、次々に点っては消える退屈な繰り返しが、永遠に続く。それこそ、私が心から父に捧げる、父に似つかわしい仏壇なのである。
※写真は、高校一年生の冬、ひとり東京へ向かう夜汽車の中で撮影。

2002年
3月 8日 金曜日
【卒業】
たとえ電子機器上の脆く儚い幻影であったとしても、安直で虚偽に満ちたものから、目に見えない実体を手掴みするような確信を与えてくれるものまで、人と人が繋がるということをこれ程深く考えさせてくれたのは、インターネットというものの恩恵だと思う。
心の中に、一人で開いた小さな学校をたたみ、自身の卒業式を行い、「仰げば尊し」を歌ってみたら、今から三十六年前の三月、両親との最後の想い出の残る、東京都北区王子を後に、清水に向かった日の事を思い出した。私の卒業式の裏側で家財道具の荷作りが進み、その翌日には清水に引越したのである。
クラスメートに「卒業式の最中にお前はきっと泣く!」と囃されて「泣くもんか」と頑張り通した私だったが、本当は声を上げて泣きたかった懐かしい歌がある。一度だけ開かれた小学校の同窓会にも出られなかった私なので、卒業式で歌ったクラスメート以外、この歌を歌える「同胞」に出逢ったのは人生で二度だけである。
何度も心の中で繰り返し歌ったので歌詞を覚えており、インターネットで検索したら、佐渡の相川町でたった一人、この歌を懐かしんでおられる方がいた。
佐渡相川の非公式ページ
http://isweb10.infoseek.co.jp/area/o_kichi/index.shtml
私の方が少しはまとまった覚え方をしていたので、早速メールを書き、そのやりとりの中で、当サイトと相互リンクするというご縁が出来た。
ただ、曲名や歌詞の一部に自信が持てず、何ともおさまりの悪さを感じていた。
かつて神奈川県川崎市にあった「生活リハビリクラブ」には、妖精と呼ばれて活躍されていた四人の美しい娘さんがおり、その内の一人、愛称「眞美さん」がこの歌を口ずさんでおられて驚いたことがある。人生で出逢った二人の「同胞」のうちの一人からの情報が欲しく、「生活とリハビリ研究所」の
U さんからのメールのカーボンコピー欄に眞美さんのアドレスがあった事を思い出し、思い切ってメールしてみた。
眞美さんはかつて、今はもう無い北海道・計呂地小学校の木造校舎で、この歌を歌い、卒業されたのだそうだ。地元の校長先生と三十代の先生に連絡をとって下さり、とうとう正式な歌詞と作詞・作曲者まで突き止めてくださった。「Subject:
わかりましたよ!」というメールが届いた三月四日月曜日は嬉しくて涙が出そうだった。
早速、歌詞を日日抄で紹介しようと思ったのだが、どうしても曲も記録して置きたく、MIDI形式の音楽ファイルを作製することにした。私が歌い、妻が写譜してくれ、あとは打ち込みだけになったのだが、Macintosh
で私が使えそうなソフトが見当たらない。そこで、先日、友人の Oさんが組み立ててくれた Windows マシン用のソフトを検索したらよいソフトが見つかったので、早速起動して楽譜を打ち込んでみた。
なんとか聞くに耐える物ができたので、MIDI 形式で保存しようとしたら、何と! 未登録では 8 小節までしか保存できないという。慌てて
Macintosh に切り換え、オンラインで送金したら即座に制限解除キーが送られて来て、こうして保存し公開することができた。やれやれ。
一人の中年男の甘酸っぱい感傷から生じたドタバタだが、自分が「たった一人」で生きているのでは無い、人と人は遠く離れていても繋がり合うことができるのだ、ということを改めて実感させてくれる小さな春の出来事こととなった。

別れの歌 作詞 鈴木達夫
作曲 矢代秋雄
楽しく過ぎた六年の 学びの庭よさようなら
明るく強く胸を張り 今日は別れの春の窓
変わらぬ誓い友情を
みんなでみんなで歌おうよ
思い出残る校庭の 緑よ花よさようなら
果てない夢を描きつつ 今日は別れの手を握る
伸びゆく者の喜びを
みんなでみんなで歌おうよ
●♪【曲をMIDI形式で聞く】
※写真は1966(昭和41)年、「別れの歌」を歌って後にした北区立王子小学校の門。

2002年
3月 9日 土曜日
【押しの愛情学】
寿司の旨味を左右する押さえどころの一つに酢飯の押し加減がある。
海苔巻きのような寿司は、酢飯の隙間に含まれる空気を食することで酢や昆布や海苔、そしてネタの香りが混然一体となったものを頂くから、何ともいえず美味しいのだそうだ。
片や、その逆である押し寿司も、押し加減により味わいが千差万別である。妻の郷里、富山の鱒寿司のように、大きな梃子の端に重石を吊り下げてぎゅっと押され、さらに食卓に上るまで青竹とゴム輪を使ってしっかりと押され、徹底的に空気抜きされているものもあれば、大阪の箱寿司のように料理人が手際よく適度な押し加減で作る微妙な味わいの寿司もある。
そして我が郷土清水で作られる鯖の棒寿司、熊野灘でとれる新鮮な春の秋刀魚を用いた棒寿司は、巻き寿司とも、握り寿司とも、箱寿司ともまた違う、微妙な押し加減の卓抜した技であることに驚嘆する。

友人の編集者、浜棒寿司、もといはまボーズ氏より、熊野名物秋刀魚の棒寿司を頂戴した。
郷里、三重県熊野市遊木町(ゆきちょう)在住の御母上が特別に注文されて息子さんに送られたうちの三本だ。
先日いただいたものは酢飯が硬くなりかけ、それでも大層美味しかったのだが、今回のものは届きたてだったので、酢飯も適度に柔らかく、熊野の海を連想させる秋刀魚の、銀色の煌めきを愛でながら頂くと、なんとも格別な味わいだった。
秋刀魚寿司の味わいもさることながら、愛情溢れる御母上とのやりとりを紹介するメールが素晴らしく、許可を得ずに取り急ぎ転載させていただく。
先日,母に前回のお礼がてら電話して,その折に,友人に1本差し上げたら,たいそう喜んでホームページの日記で紹介していたよ…という話をしたんですが,どうもそれがいたく気に入ったようです(笑)。
もっとも「ホームページったら,なんや? 住宅関係の人かいな?」
という反応でしたけど(@_@)
以下,このときのやりとりをもう少し詳しく再現:
母:ホームペ,ぺッ…ペッ……言われへんがな…。
家,つくってる人かいな? その友達。
(おふくろは最近ちょっと構音障害が出て,発語の始まりに出にくい言葉がある)
私:いや,本,作ってる人や。
母:そうか,ほなら,あんたとおんなじやな。
私:いや,ちょっとちがう。おれは本ぜーんぶ作ってるけど,彼は表紙だけや。
母:表紙だけ……(しばしの間)
私:ところで,送り先やけど…(と言いかけたとき)
母:なかはつくらんのか?
私:あん?
母:表紙だけやて,中は作らんのか?
(しもうた,これはおいらの言い方が悪かったな,と思いつつ)
私:いやいや,中もちゃんと作るんやけど,彼は表紙のデザ…
母:中のない本って……おまえもそんなん作ってるんか!
(叱り声ぽい。こちらの言うことを聞いてない。どうも表紙だけのでたらめな本を必死に想像して,そんな本を作ってるのか,と心配しはじめたみたい)
私:ちゃうちゃう,彼はデザイナーやねん,デザイナー。そやから…
母:あっそうか。あの子か? なんちゅうたかな,前に家に来た…
私:哲ちゃんか?
母:そやそや,ちょび髭伸ばしてな,あの子はええ子やで。
私:いや,(川上)哲ちゃんとはちゃう,哲ちゃんはカメラマンや。
母:そうか。で,何本くらい欲しい?
(こらこら,ちょっとこっちの話を聞け,と思うが,母は昔からいったん納得すると理解が早い)
私:何本でもええよ。
母:ほなら,10本くらい送るわ。多すぎても食べきれんやろし,
(酢飯が)固うなるしな。ほかにアジとかハゲ(カワハギ)はいらんか? どうせ送るんやから一緒に入れとくわ。ほなら,おやすみ。
(ガチャン)
というわけでんす(笑)。
きっと,箱の隙間に,いろんな物の詰まったクール宅配便が届くことでしょう。
まぁ,福袋みたいなもので,何が入ってるか,楽しみですが…
***
かつて本郷通り沿いの居酒屋ではまボーズ氏と呑んだ際、
「おふくろが作る荷物って、どうして隙間という隙間に、急に思い付いたようなとんでもないオマケが入っているのでしょうね」
と、話し合ったことがある。
母が息子に送る小包というのは「愛の押し寿司」なのである。
同じ大きさなら少しでもたくさん詰め込もうという戦中派特有の貧乏魂かもしれないし、それはまた、物と物との隙間に漂う哀感を見せまいという負けず嫌いな魂の発露かもしれないが、手許を離れる荷物に込めた切ない愛情に得心せず、追分の辻まで取りすがって走って来た、小さくなっていく母親の姿のように、私には見えてならない。
静岡県清水市、我が家からほど近い万世町という町に、「みき」という居酒屋がある。海上保安官である友人
Oさんから教えていただくまで、私はこの店を知らなかった。お年を召したご夫婦で営まれている店なのだが、店内の調度といい、家の構造といい、そして出される料理といい、それは素晴らしいもので驚いた。私はこの店に入る度に「人生は劇場なり」との思いを強くする。
店内に漁船の白黒写真があるので由来をうかがったら、ご主人はかつて熊野灘で漁をする漁師さんだったらしい。清水みなとを訪れた際、奥様と知り合って結婚し、船を降りてこの地に店を持たれたのだそうだ。そんな話をうかがいながら頂く、格安の地魚は味わい深い。
昨年の暮れも押し迫った三十日にお邪魔したら、昔だったらこの日は、秋刀魚を使って棒寿司を二百本も作り、近所に御裾分けしたのだそうだ。心を込めて押すものには愛が込めやすいのだ。
今はもう出来なくなってしまったし、あと数年もしたら店をたたむなどと弱気なことをおっしゃるので、私は奥さんの手を取って涙ぐんでしまった。最近は酔うと涙脆くていけない。
はまボーズ氏のお礼には、是非この店でご馳走し、遠い熊野の海の話題にでも花を咲かせながら、「人生劇場」の舞台で、一夜、酔い痴れてみたいものである。

2002年
3月 10日 日曜日
【ものよみのものがたり】3…財布の開き方

「モノ」もまた書物なり。
モノには常に妥当な価格というものがあると、私は思う。
断固「ある!」と思うのだが、友人とそんな話をしたことは無い。
「ない! ともかく安いに越したことはない!」
などと言われて言い負かされるのが嫌だし、
「安ければ安いほどいい、タダに近い価格こそ最良の価格だ!」
などという言葉を友人の口から聞くのが嫌なのだ。
我が家の女性たちは、東南アジアから輸入された、いわゆる「エスニック」な衣料販売店に立ち寄る度に、
「ああ、材料費どころか、手間賃にすらなりそうも無い価格で、どうしてこんな洋服が出来るのかしら…」
などと溜め息混じりに言う。そして、ミシンに向かって「自分で手作り」という労働をするなんて、もう嫌になってしまうし、とてもこんな価格のものを買う気になれない、と申し分けなさそうに顔を背けている。
友人の Oさんが Windows パソコンを私のために組み上げた際、自分が機器のテスト用に購入したキーボードをプレゼントしてくれた。ジャンク・ショップで1,000円だったと言う。
いかにも「1,000円」という感じの簡素さで、私のように時折、仕事で使っている Macintosh から離れて、遊びで Windows
を使うような半端者には、いかにもお似合いな軽薄感があって好もしい。
ただ、Macintosh のキーボード脇に置いて使うには大きすぎて、極小のキーボードが欲しいなぁと思い始めた。Macintosh
用にも極小キーボードはあるのだが、価格が高くて手が出なかったので、Windows 用も高いのだろうなと思いつつ、仕事帰りにパソコン・ショップを覗いて見た。
小さいけれど、緻密な作りで気に入ったものがあったので、価格を見ると、何と 2,979円。どうしてこんな価格でできてしまうのか、マルチメディア対応
ACPI 機能対応ホット・キーが 11 も付き、Windows XP 対応で、マニュアルとドライバCD が付き、綺麗な化粧箱に入った新品が、である。こんなもん、金型代だけでも大層な額になるだろうにと、会社員時代のことを思い出したら暗澹たる思いになり、小遣いで買える値段で、しかも求めていたものなのに、すっかり購買欲が薄れてしまった。
ガラス窓に鼻がぶつかるくらいに顔を近づけ、とても手が届かない価格の商品を、毎日眺めて帰った高校生時代を思い出す。それは、社会人になって、自分で稼いで金を手にするようになっても、とても手の届かない商品だった。次から次へと欲しい新しい商品が現れ、次から次へと他人の手に渡って行き、自分には永遠に回って来そうに無いと思えた時代だったからこそ、ウインドウを覗いて額に汗を浮かべるだけの、空想の買い物は楽しかったに違いない。

私も妻も、子ども時代、鍵盤楽器のある家庭に育っていない。
ピアノを私と連弾するのが妻の夢であり、ピアノが欲しいと時折口にするのだが、高額の買い物に思い切る勇気も、肝心のピアノの置き場所も、そしてピアノの連弾などをする時間すら、今の私たちには無い。ピアノは今でも価格以上に、私たちにとっては高価なのである。
金子みすゞ関係の仕事をともにする仲間達と、妻はアルト・リコーダーの演奏に夢中である。
18世紀に作曲された作品の楽譜を買い込んで、簡単な曲は初見で吹いていたりするのだが、半音を多用した複雑な曲を演奏するために、試しに弾いてみる鍵盤楽器が欲しいという。うんと簡素で安い鍵盤でいいから買って来いと私に言う。本物のピアノが買えない故の、意地もあるのだろう。
安い電子鍵盤楽器はいくらでもあるのだが、安くて驚くほど機能豊富で虚仮威し的なデザインであることがどうしても好きになれず、もたもたしているうちに、ふと隔月おきに帰省している静岡県清水市のフリーマーケットで、数ヶ月以上売れ残っていた、幼児の知育玩具を思い出した。
いわゆるベネトンカラーで乾電池二本で動く。小さくて膝に載せても可愛いし、8種類の音源、8種類のリズム、5種類の動物の鳴き声、録音再生機能までついているのだ。一体、いくらくらいで売られていたものかわからないが、とんでもない価格で再び売りに出されていたのだ。
もう、売れちゃったかなぁと思いながら、帰省の際にフリー・マーケットを覗いてみると、未だに売れ残っており、値段を見るとたったの500円なのである。500円ですら「妥当な価格」と判断して買う人がいなかったのである。私は、これになら「格安・高機能・ゴテゴテデザイン」の電子鍵盤に払うくらいの「妥当な価格」を払ってもいいと思えた。
ベネトンカラーの知育玩具は、可愛いし、これで充分と、今では妻のお気に入りである。
私の方はと言えば、1,500円程で、今使っている Macintosh 用キーボードを Windows マシンでもそのまま使えるドライバを開発された方がいたので、そちらに作者が求める「妥当な価格」を支払わせていただいた。考えてみれば、OS
は二つであっても、モニタを共有しているのだから、キーボードもマウスも一つあれば充分なのだ。消費の熱が冷めるのはいともたやすい。

2002年
3月 11日 月曜日
【“窓の村”は戦場だった】
♪ 覚えているかい 故郷の村を 便りも途絶えて いくとせ過ぎた
三橋美智也の歌声を聞きながら、住み慣れた“林檎村”を飛び出し、“窓の村”で暮らしてみた。
“林檎村”は平和である。平和だと、緊張感無しで生きていられるので、なんともおっとりした性格になり、尻に火の付くような仕事の洪水に追われながらも、このような他愛もない日記を、早起きして書いたりもする。
“林檎村”に吹く朝の風は心地よい。祖母は「朝の林檎は“金”の味がする」と、朝の林檎食を推奨していた。元日なら「謹賀新年」、誕生日なら「HappyBirthday!」というメッセージを忘れず、常に他人を慈しむ“林檎村”での暮らしは心安らぐ。
友人が組み上げてくれた、Windows XP Professional 搭載の極小パソコン Polo T を使うことで、めでたく“窓の村”の住民票を得て、他人には
「Macintosh と Windows 両刀使いなら、インターネットは Macintosh
に任せた方が安全ですよ」
などと言っているくせに、ついつい Windows XP Professional の軽快さに夢中になり、その果てにネット接続までやりたくなってしまった。
何も良い事など無いとわかっているのに、ついつい都会の誘惑に負けて、平和な村に、都市的な悪い血を受け入れてしまう、村人の愚かさにも似ている。
Polo T に、ルーターからの LAN ケーブルを接続し、Windows XP Professional を起動するだけでインターネットに接続可能である。“窓の村”の親切さは気味が悪いほどだ。Outlook
を立ち上げ、仕事で使用しているメールサーバーの設定を入力し、送受信ボタンを押すとメールが 150通ほど流れ込んで来て、メーラーも接続完了。“窓の村”の小さな小屋に表札を掲げ、ご近所への転居挨拶も済ませ、これからは数歩の距離の国境を越え、“林檎村”と“窓の村”を行き交う生活になることを実感した。
ところが、翌日からメーラーを立ち上げると挙動がおかしい。用も無いはずの Windows Media Player が立ち上がり、慌ててストップすると奇妙なメッセージが現れる。“林檎村”の者を良く思わない村人の嫌がらせかしら、放っておけばおさまるかしら、などと気にしないようにしていたのだが、ふと受信メール一覧を見ると最上部に「RE: 」というタイトルのメールがあることに気がついた。
何と、たった一度の接続初日にウイルスメールを受信していたのである。
“林檎村”では感染しないウイルスなので、“林檎村”で暮らしている時は、マウスでつついて「これが“窓の村”のウイルスかぁ」などと、弄んでいたりしたのだが、自分が“窓の村”の住人になっていることをすっかり忘れていたのである。早速、海保の
Oさんに問合わせると、Badtrans_B というウイルスで、アドレス帳にあるメールアドレスを盗み出して、ウイルスメールをばらまくのだそうだ。幸い、アドレス帳は“林檎村”から持ち込んでいなかったので他人様にご迷惑をかけずに済んだ。
病気というのは、なかなか、成ろうとして成れるものでは無い。「よーし、今夜は風邪を引いて発熱し、明日の仕事をさぼる口実にするぞ!」などと、意気込んで裸で寝ても、朝になるとしっかり毛布に包まって寝ている自分に気づく。人間にはちゃんと、無意識のうちに自分を守ろうとする、邪悪な者への防波堤が仕込まれているのである。
雷サージを取り付けたから、雷でも落ちないかなぁ、などと思う人はいないだろうが、ウイルス検知ソフトを入れたから、ウイルスが届かないかなぁなどと思い、ウイルスが駆除される瞬間を見てみたくなることはある。そういう時に限ってウイルスの来襲は無く、髪の毛一本ほどの心の隙間を狙って、ある時突然、ウイルスは侵入する。
私はかつて、“林檎村”で AutoStart というウイルスに感染した。
あまりに平和なので、新しい Macintosh OS をインストールしてみようと作業を始めた瞬間、仕事先の出版社から MO
が届き、ウイルス検知ソフトの入っていない Macintosh に挿入した途端、感染したのだ。
今回も、Windows XP Professional をセットアップし、各種設定を済ませてからウイルス検知ソフトを入れようと思い、設定のための第一回目のメール受信をしたところで、ウイルス攻撃の洗礼を受けたのである。そういうものだ。

早速、ウイルス検知ソフトを購入して来て、インストールしたのだが、この手のソフトのパッケージはどうしてみんな毒々しく、騒がしく、悪ふざけめかした表情をしているのだろう。
国民的な被害として政治の場でも取り上げられるくらいなのだから、国民健康保険でワクチンが支給されてしかるべきなのに、この商売っ気剥き出しで、解り難い料金設定の表記はなんぞやと、パッケージを読んでいたら腹が立って来た。悪人と、持ちつ持たれつ、二人三脚、マッチポンプの経済活性化策なのでないかという、あらぬ疑念も湧こうというものだ。
“林檎村”で平和ボケした者が、隣村に行こうとしたら、決して忘れてはならない。“窓の村”は戦場であり、現実世界と同じくらい悪意が善意を凌駕する世界なのである。

2002年
3月 13日 水曜日
【ものよみのものがたり】4…記憶と記録

「モノ」もまた書物なり。
毎日日記を書くと決めたものの、仕事の忙しさが増すにつれて、そんな余裕は無くなる。
せめて外出時、移動中に、頭の中で原稿書きに励むのだが、帰宅後、キーボードに向かうと失念してしまう。考えたら即、書いておかねばとモバイル・コンピューティングなどを始めてみたのだが、いつの間にやら頭の中に原稿用紙が浮かんで来て、きちんと記録がとれるようになったので、携帯用パソコンも不要になった……と、日記に書いたらお便りが来た。
本当にそんな事があるのか信じられない、ひと舛ごとに一字一字文字が見えるのか、日記など止めて少し休んだほうがいいのでは……などなど。
100円ショップなどが無い時代、昭和三十年代、上野広小路、現在「ABAB(アブアブ)」というファッションビルになっている建物は、その昔「赤札堂」という百貨店で、そのワンフロアが「95円均一(市)」という安売り市場になっていた。何を買っても95円で、私はこの店に行くと、一抱えもある黄ばんだ原稿用紙を買ってもらうのが嬉しかったのである。原稿用紙の升目を文字で埋めていくのが好きで、当時書いた作文や、動物を主人公にした物語りは、画用紙で表紙をつけ、目次やあとがきまで加えて綴じられ、今も実家の母が保存している。
***
私の世代あたりまでの子どもたちは、小学校高学年になると算盤教室に通わされることが多かった。
私が過ごした町では、町会事務所二階の大広間に座り机を並べ、町内のお兄さんお姉さんが先生になって珠算の寺子屋のようなものが開かれていた。私も通わさせて貰ったから、月謝も格安だったのだろう。定期的に検定試験があって進級し、ある級に達すると算盤を使わない計算もやらされた。暗算というやつだ。
「ごわさんで願いましては…」で始まり、「引くことの二万とんで八百七十三円では!」と、先生が式の読み上げを終えるまで、頭の中で必死で暗算するのである。町会事務所の隣りは小さな魚屋になっていて、算盤教室が始まる黄昏時は買い物の主婦たちで喧騒を極めるのだが、計算式を読み上げる先生の声以外、全く聞こえない静寂の世界だったのが今でも不思議である。
私たちは目を閉じ、机の上に手を乗せ指を動かし、必死で目に見えない算盤の珠を弾いた。そうすると頭の中の算盤の珠が見事に動いて計算されるのだ。「数字という言葉」で計算するのではなく、思い描いた算盤の、珠の配置で計算が進んでいくのである。先生が式を読み終えると、私たちは争うように「はい、はい、はい、はいっ!」と、手を挙げた。それでも頭の中の算盤は明確に思い浮かんでおり、正解だと「ご名算」、違っていると「違いま〜す、はい、はい、はい、はいっ!」と再び手を挙げて正解を競うのである。
***
妻はアルト・リコーダーで中世の曲を演奏することに夢中である。
難しい曲も楽譜を見ながら初見で吹けることに感心する。音符を見てその音が出る位置に指を動かす時、音符という記号が頭の中で具体的な音に置き換えられる過程があるのかと尋ねてみた。もちろんあるし、その時は白黒の鍵盤が思い描かれるのだという。
***
テレビ番組に、記憶の達人が登場し、司会者が読み上げる膨大なデータを暗記し、要望に応じて記憶から引き出してみせる技を披露していた。どうやって記憶していくかという問いに、テレビスタジオの中をぼんやり見つめながら、目についたものに関連づけながら記憶していくのだという。
***
子ども時代、病気になったりすると、母が珍しく「何でも買ってやる」などと言い出し、私は付録付きの月刊漫画雑誌をねだることが多かった。
その付録で忘れられないものに“ソノシート”というものがある。ペラペラの樹脂で出来たレコードで、今なら差し詰め、雑誌のおまけ
CD のようなものと思えば良い。
家庭にレコードプレイヤーなど、そうそう有るわけでは無い時代だったのだが、その付録というのが秀逸で、厚紙を使った工作でインチキ蓄音機が出来てしまうのである。指で“ソノシート”を回すと針の先から情報が伝わり、薄手の紙を振動させて確かに音が聞こえたのだ。
私はひどく感激するとともに、そうか、音を振動に置き換え、それを針の先に伝えて線を刻むからこの溝のある“ソノシート”に音が記録され、逆に、もう一度溝を針で辿って振動を取り出せば、こうやって音が聞けるのだなぁと思ったりした。思っただけでは我慢できず、コンパスの針で下敷きを引っ掻きながら、大声を上げて溝に音が刻めないか、などという馬鹿なことを試みたこともあった。
***
私は、幼い子どもがブツブツ呟きながらお絵描きするのを見ることが好きである。
描き終えた頃を見はからって、「何を描いたのかな」と話しかけると、子どもは描線を指で辿りながら、滔々と物語りを始める。お母さんが側にいると、
「やだわ、この子ったら、そんなもの描いて無いじゃないの」
などと、奇妙な線がのたうった、我が子の抽象画を見て笑う。
だが、そうではないのだ。子どもは一本一本の線を辿りながら、自分が遊んだ物語りの記録を再生しているのである。それを聞かせて貰うのは、とても感動的なものだし、我が子が健やかに育っている喜ぶべき証しなのである。
***
私の母は、一度手にしたモノが捨てられない人である。
若いうちはまだしも、年老いて一人暮らしを始めると、ガラクタの山に埋もれて生活しているように、息子の私にはみえる。どうしてこんなものをとって置く、どうしてこんなものを飾って置くのだと、問い質すことも多い。歳をとったら少しずつ、身軽な暮らしを心掛けたほうがよいなどと、聞いた風なことを言い、母も多少は納得している部分もあるようだ。
「気分転換に、たくさんモノを捨てて片づいたから、今度帰った時はびっくりするよ」
などと言うものだから、期待して帰省するのだが、何も片づいていないのに呆れる。
だが、母は確かにガラクタを捨てたのだろうと思う。
私にすれば、ほんのちょっとのガラクタ整理であっても、母はそのガラクタを手にとったとき再生される、膨大な思い出を捨てたのだ。モノというのは目に見えない記憶まで含めた総体としての情報であり、モノを手がかりとして紡がれる膨大な物語りの記録は、残念ながら本人以外には再生不能なのである。
※写真は明治製菓のチョコレートを買って、懸賞で貰った「
ザ・タイガース」のソノシート。これも他人から見ればガラクタに過ぎないのかもしれない。

2002年
3月 14日 木曜日
【林檎の名前】8…iBook
500/12.1

パソコンは小さいほうがいい。絶対小さいに限る。
そんな話をすると、「いや、小さすぎると、また使いづらい」という人が、きまって現れ、話は隘路に入っていく。
私が言っているのは、見ても何やらわからない電子曼荼羅の計算機部分のことであり、インターフェイスであるディスプレイとキーボードは適度な大きさが好もしく、決して小さすぎてはいけないと、私も思う。ただ、“小さいパソコン”と言うとノートパソコンを思い浮かべるので、話がややこしくなるのだ。
“電卓は小さければ小さいほど良いが、数字ボタンと計算結果表示は大きい方が良い”という理想が相矛盾して両立しないのと同じことなのだ。
私は、ぶらりと旅に出るのが好きである。それが許されないから、そうしないだけで、社会に打ち捨てられ、しがらみのない人間だったら、ある日、流木が再び浜辺を離れるように、気ままに旅に出てみたいと思う。
気ままな旅では無いけれど、時折、仕事の出張で泊まりがけの旅に出ることがある。
下着の替えを持つくらいの軽装で出掛けるのが好きなのだが、妻がしてくれる旅支度は、微に入り細を穿ったもので、それは「小さな家庭」を持ち運ぶに等しい重装備になってしまう。
さらに、妻も同伴でとなると、「持ち出す家庭」も更に大きくなる。男にくらべて、女のそれは、あれこれ欠かすことのできないモノが多いらしい。
パソコンを持ち歩くというのも、それに似ている。
重装備を望む女性型と、軽装備を望む男性型である。
仕事でパソコンを使い、利便性を肯定的に感じるようになると、その「便利さ」を持ち歩きたくなる。持ち歩きたくなった時の旅支度の態度に、女性型と男性型が現れるのである。
私は、ワープロ、メーラー、辞書、住所録、計算機程度があれば、旅支度としては充分であり、それだけの機能を詰め込んだものがポケットにおさまる「小さな旅支度」であることを、潔く好もしいものと思う。ディスプレイもキーボードも小さくて良いのである。
その対極に「いや、小さすぎると、また使いづらい」という人が登場し、彼らは持ち運びたい「家庭」が違うので、重装備を望むのである。
Macintosh
ユーザーが旅先で Macintosh を使うための「小さな旅支度」というものは無い。
Macintosh の使い心地を残したままで「ワープロ、メーラー、辞書、住所録、計算機程度」を持ち歩く道具を作れないわけではないが、AppleComputer
はパソコンを小さくすることに抵抗して来た。
かつて、Macintosh PowerBook 2400c という小さな PowerBook が存在した。日本 IBM が設計を担当したという話も聞く。日本のユーザーは狂喜し、もっともっと小さくと要望し、小さすぎて米国本土では商業的に成功しなかった事を理由に製造中止が決まった時は、延命を嘆願したものである。
大きな帆立貝スタイルの iBook の貝殻から、小型の iBook 500/12.1 が誕生した時は驚いた。ビーナスの再来だったからだ。
その時点で、我が家では PowerBook G4 の購入を決めていたのだが、急遽 iBook 500/12.1 を二台購入することに変更した。本体の小ささもさることながら、価格が
PowerBook G4 の半値近い「小ささ」だったし、結婚二十周年を記念して、夫婦揃って新しいお揃いのパソコンもいいなと思えたからである。
だが、これすらも大きな旅支度であり、妻の iBook 500/12.1 は、大型の液晶ディスプレイと AppleProKeyboard
を接続して、蓋を閉じたまま起動し省スペースデスクトップ型パソコンとなっているし、私のは自宅への持ち帰り残業用となっている。「小さな旅支度」とは呼べない大きさであることに、変わりはないのである。
AppleComputer
が作ってくれなくても、「ワープロ、メーラー、辞書、住所録、計算機程度」を持ち歩くのに適した「小さな旅支度」が Windows
の世界には用意されている。
NTTドコモのsigmarionII (シグマリオンII)という PDA がそれで、H/PC2000 という OS を搭載している。操作感は本家の
Windows より、遥かに Macintosh の使い勝手に近いように、私には思え、しかも、使わないけれど Pocket
Office や Internet Explorer のようなネットブラウザまで搭載されているのである。
林檎のマークがないのは寂しいが、これが現時点での、私の「小さな旅支度」なのである。
iBook
500/12.1:CPU=500MHz PowerPC G3、最大メモリ搭載容量=PC100 SDRAM で最大640MB
まで拡張可能

2002年
3月 15日 金曜日
【柳と離別】
渭城朝雨潤軽塵
客舎青青柳色新
勧君更尽一杯酒
西出陽関無故人
渭城の朝雨 軽塵を潤し、
客舎 青青 柳色新たなり。
君に勧む更に尽くせ一杯の酒、
西の方 陽関を出ずれば故人無からん。
「話しかけるように揺れる柳の下を…」
松任谷由実の『卒業写真』などを口ずさみ、仕事帰りの南新宿を、生暖かい春の風に吹かれながら歩く。柳の芽吹きが美しい。
柳は人の離別を象徴する樹木とされている。そのため、昔、中国では旅立つ人に、柳をひと枝折って贈ったのだそうだ。
そう聞けば、「柳と離別」、何となくわからないでもない気がする。

子どもの頃、私は台風が大好きだった。
1959年9月26日、潮岬付近に上陸し富山湾を経て三陸沖に抜けた伊勢湾台風では、全国で死者・行方不明者5,101名が出たという。台風が来る度に、沢山の人命が失われた時代であり、そんな時代に台風が好きだったなどというのは不謹慎な気もするが、私の友人は皆、子ども時代、台風が好きだったと言う。
ラジオで台風情報を聞きながら、女性は停電に備えてロウソクと徳用マッチを用意し、非難時に備えて持ち出す荷物を整え、男たちは何処からか板材を集めて来て、家中の窓や引き戸にばってん型に打ちつけていた。最後に玄関をばってん型で封印したら、家に入れなくなってしまったなどという、四コマ漫画も見た記憶もあるから、日本中でそういう光景が繰り広げられていたのだろう。
台風に伴う突風で飛来する物から、家人を守るために板を打ちつけるのであれば、ばってん型防御では隙があり過ぎるのではないかと、子どもの私は不思議に思っていたものだが、今思えば、台風に大切な窓や玄関のガラス戸を持ち去られないための防御であったことが微笑ましい。
昔は、台風が来る度に良く停電したものである。
電灯がふっと消え、ラジオが消え、窓ガラスが激しい音を立てて鳴り、電柱や電線で風がびゅうびゅう「泣いて」いた。卓袱台の真ん中に立てたロウソクに照らされた家族の顔は、何故か生き生きとして魅惑的であり、そんな時、大人たちは決まって
「戦争中を思い出すなぁ」
などと言った。いつまでも停電が続くと、男たちは妻が止めるのも聞かずに表に出て、
「隣町の方で灯がついたから、こっちももうすぐだぞ!」
などと、逐次報告していたものだった。
清水市の川沿いに住んでいた祖父は、暴風雨の中、浴衣を脱ぎ捨て、越中褌一丁、雪駄履きでの、堤防の見回りを欠かさなかった。
台風の夜、富山市の神通川近くで暮らしていた妻は、しばしば洪水を体験していた両親から、万が一に備えて、水着を着せられ腰に浮き輪を付けさせられて、食卓に向かっていたという。
今なら笑い話なのだが、台風が来る度に全国で悲しい家族の離別が容易に起こり得る、そんな時代だったのである。
私は、暴風雨の中、台風に耐える柳の木を見るのが好きである。
幹をしならせ、枝をたなびかせ、必死に大地にしがみつく柳の姿は、悲しい離別など受け入れまいとする「生」への執着であり、台風が来るたびに珍騒動を繰り広げた親たちは、容易に死ねる貧しさの中で「家族揃って生きる有り難さ」を、必死で守ろうとしていたのである。
台風一過、生暖かい風に吹かれて街を歩く時、ちぎれた柳の枝が舗道に散り落ちているのを見る。
生と死が交錯する奇妙な興奮をもたらして去って行った台風へ、柳が差し出した、ひと枝の手向けである。
※唐詩 王維 送元二使安西 は未定義文字が含まれるため原文通りの表記ではありません。

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